ねこさいんの足跡

にゃーんの翻訳

迷ったら楽な方という母の口癖

今週のお題「母の日」

結構マザコンねこさんのおはなし(うちの家族は私以外犬派です)

母には今もいつもお世話になっている。私は人一倍手間とリソースを食うガキで、今も困ったことがあったり雑談したくなったりするとちょくちょく電話している。子供の頃は私はもっと優柔不断で、我儘でこだわりが強い割には色々なことにすぐ迷い、母親に相談することも多かった。今考えると話していると思考が整理されるのだと思う。一方どこまでが自分の考えで、どこまでが母親の考えなのかわからなくなることもあった。高校生までは親や周りの大人の考えと同じ意見でいると色々なことが潤滑に捗る。

しかし、大学生以降はそうでも無い。どこで何をするのにも大抵は自分の判断がいる。また規制がゆるくなったぶん、自分は何が好きでどんなふうにしたいのかよく考えないと、あれよあれよと色々なものを搾取されたり、無駄にしてしまったりする。これはとても大変なことだな、と思う。優柔不断で大人しい「いい子」にとってはとても迷惑な話だと思う。でも周りのいい子達は大学の勉強やサークルやバイトに没頭しているのですごい。多分柔軟性がすごいか、現実に生きているか、「いい子道」の生きるルートにいるのだと思う。理系資格ものだし。
そして、自分の周りの人も、見るメディアも、時間の使い方も住む場所も全て変えてしまったので、自分の好みや考え方も多少変わったと思う。そこで、田舎では当たり前だと思っていた考えとは違う考えも知った。自分が好きとか大切にしているとかその逆も、思い込んでいたことが案外そうでもなかったことにも気がついた。それは個人的には成長だと思うが、一方、実家やそれまでいた世界の文脈で生きることを難しくもした。この前帰省した時も、以前より地元の街や実家の「自分の居場所」な感じがうすれて、少し息苦しかったし、寂しくもあった。思い出の店も、たった数年で何軒か潰れていた。今大切にしているものも有限なのだなと無常を感じた。

さて、私が母に最近した相談は「行こうと思って申し込んだ講演会のやってる駅前に着いたが、気の重い課題を思い出すと憂鬱だから行くか迷っている(費用は当日払い)」という話だ。決断慣れしている人はこんなのどうでもいいと笑うと思う。私はすぐ悩む割には、切羽詰まって悩むと腹痛に出るので、こんな些細な問題でも電話で母の声を聞くといくらか楽になる。母は「どっちでもいいけど、迷ったら楽な方にしたら」と言った。この「迷ったら楽な方」というのは、私が相談した時によく聞くお決まりの言葉だ。私はそれを聞くととても心が落ち着く。この言葉は、単に問題から逃げているのではなくて、少しでも私を楽にしてあげよう、という思いやりを感じる。だからとても感謝している。あと母親の元気そうな声が聞けるのはシンプルに嬉しい。
楽といえば行かない方が確実に楽だ。でも結局、帰ったところで課題に集中出来るかは疑問であり、経験上では大抵はネットばかりやって後悔することが多かった。結局、折角の機会は無駄にしたくないと思って講演会は行く事にした。講演は進路に関係する分野なので、自分が何を面白がるのかちょっと試して見たかったからだ。それは自分の判断であった。結局講演会はドンピシャとはいかず半分くらいしかわからなかったが分かったぶんは面白く、課題も終了では無いが何とか手をつけて進めた。

母には感謝しているし、落ち着きたい時にはまた母に電話しようとは思うが、精神的には少しずつ自立を試みている。もっと自分が大人になったら、母親とも、地域とも、完全に対立した考えを持つようになるかもしれないが、その時もどうでもいい話でもいいから母と話せたら癒されるのかは分からない。しかし、今のうちは少し甘えつつ、自分で判断する習慣をつけつつも、母と仲良くしたいと思う所存である。